読谷村(8) 座喜味城跡

2008年3月26日(水)

座喜味城跡

①15世紀のはじめ護佐丸座喜味城跡によって築城された。
②1972年国指定の史跡となる。沖縄最古の石のアーチ門がある。
③2000年首里城とその関連遺産群といて、世界遺産登録。
④沖縄の城の特徴の代表である。曲線が多い。戦いにはむかない美しい城と言われる。(水がない。斜面が多く、城壁は芸術的すぎる)
 
⑤15世紀初期の日本は室町時代。建築、庭園、演劇、茶道、華道等々今日の日本文    化の基礎を築いた。遠く離れた沖縄の片田舎にも美しい城があった。
⑥城壁に立つと首里那覇をはじめ本島西側、本部半島や東シナ海に浮かぶ慶良間諸島・久米島・伊江島・伊平屋諸島が眺望できる要害の地である。
  1422年 護佐丸が山田城から座喜味に移り、長浜を拠点に海外貿易を行い、読谷に特色ある文化を根づかせた
    1442年 護佐丸が城を「中城」に移す。
⑦1422年~1820年頃、首里から国頭方面への街道が喜名村に開通し、番所が移さ れるまでの400年間、読谷山番所が座喜味所内にあった。
 
⑧2000年、首里城の関連遺産として、世界遺産に登録された。

<座喜味城からみる読谷村>

嘉手納弾薬庫
   国道58号線の東側、嘉手納基地の北側の広大な地域。嘉手納飛行場は弾薬庫地域を含めると羽田空港の5倍の広さと言われる。西太平洋地域のアメリカ軍の弾薬補給センター。かつて、核兵器が貯蔵された。まだその疑惑が残る。
 
やちむんの里
   座喜味の東側。かつては米軍の不発弾処理場であり危険なところであった。村民の地道な運動により土地は1978年に返還され、文化村にふさわしいやちむんの里ができた。金城次郎は「読谷壺屋焼」の人間国宝として有名である。
 
大木が原
     読谷村のよい土地は、戦後、ほとんど米軍基地に接収された。大木が原もその例である。現在も米軍基地にされ、トリイ・ステーションとよばれる。この基地には大きなアンテナ群が林立し、敵国の通信情報を傍受・解読する事で有名である。また、米陸軍特殊部隊・グリーンベレーの訓練基地としての動きも大きいと言われる。
 
読谷飛行場
     読谷補助飛行場の前身は沖縄戦の際、日本軍が住民を総動員して建設した「北飛行場」である。土地を接収するとき、日本軍は地主に対し「戦争が終われば、土地は返す」と約束をした。しかし、土地は返らず、米軍のパラシュート訓練基地として使われてきた。しばしば、事故が起こった。トレーラーによる圧殺事故もあった。村民の強い反対運動で、軍事基地を少しずつ縮めてきている。村民の運動は基地の中に、福祉施設や文化施設、運動場、野球場、体育館を建設してきた。1997年3月22日、治の殿堂として村役場が完成し、豪華な文化センターも立てられた。
    読谷飛行場の返還は村民の悲願であったが、像のオリも含め、2006年12月 31日に返還された。
 
 
    瀬名波通信基地              06,07       21ha
    楚辺通信所象の檻      06,12,31、 53.4ha
    飛行場西地区                06,12,31、 53ha
    読谷補助飛行場跡返還        07,01,05 178ha   (村所有国有地47ha)
                                      305
           復帰時73%の軍用地が、35.9%になった。
           返還地の一部は、基準値20倍の鉛で土壌汚染