読谷村(3) チビチリガマ

2008年3月26日(水)

チビチリガマ1チビチリガマ

1チビチリガマは140人の住民が避難し83名の人命が集団自決で命を失った所。
   集団自決は皇民化教育の最も悲劇的な結末であり、沖縄各地で発生した。
伊江島(100人),渡嘉敷島(329人),読谷村(83人以上),座間味島(171人)
   美里村(10数人),留間島(数10人),喜屋武半島(数百人)等。
 
2事件は米軍が読谷に上陸した日と翌日に起こった。ガマには波平区民の住民31家族、140人がいた。10・10空襲以降、読谷村にも米軍の空襲があり、空襲がないときは昼間は畑や家で作業や炊事、夜はガマに戻る生活が続いていた。                                     
①4月1日米軍は読谷の西海岸から上陸しチビチリガマ一帯まで迫ってきた、ガマにいた2名が竹槍で突撃したが、チビチリガマ2米兵に歯が立たず負傷した。4~5名の米兵が通訳とともにガマ入ってきた。「殺さないから出なさい」といったが誰もでない。
   米兵がいなくなってから最初の「自決」が起こった。18才の少女が「捕虜になって強姦されて死ぬより、きれいなままで死にたい。お母さん殺して」といった。母もそう考えて覚悟し、娘の首に包丁を当てた。この「自決」を見た元従軍看護婦が中国での軍隊の残虐な殺し方を話して、注射器と毒薬を取り出し、「量が少ないので身内だけ」といって注射し、自分も含めて14、5名が死んだ。
 
②4月2日朝8時半頃、米兵3人と通訳がきた。「日本兵はいないか」「住民は殺さない出なさい」といたが、誰も出なかった。米兵はガマを出た。「集団自決」はその後に起こった。布団に火をつけるから「出たい人はでなさい」と誰かが叫んだ。火がつくと、人々の顔は真っ赤になって写り、オニに見えた。天皇陛下バンザイの叫びや鎌や包丁で殺し合う様は地獄絵であった。チビチリガマでは83名が「集団自決」に追い込まれ、17家族が一家全滅した。その約6割は子供であった。       
 平和の像
3戦後42年目1987年4月2日「平和の像」が金城実氏と遺族によって建立した。    その7ヶ月後、「海邦国体」の時、右翼によって像は破壊された。              
   「平和の像」が修復されたのは、それから8年過ぎて、1995年4月2日であった。